天使のまゆげ


 やっと見つけた。藤原新也さんの写真コラム『藤原悪魔』(文藝春秋)。10年くらい前に買って読んで、その後どこに置いたか忘れてタイトルも思い出せないでいた。最近むしょうに読み返したくてたまらなくなって、しょうがない買いなおそ、と思っていたら書棚から現れた。
 この本は、アジアやヨーロッパや日本のあちこちを訪れた藤原さんが、各地で体験したちょっと不思議な出来事、忘れがたい思い出などをつづっている。1990年代に日本で起きたきな臭い事件が題材のコラムもあるけれど、野良犬や野良猫、などの動物と交流する話のほうが印象的。
 で、一番読み返したかったのは、冒頭コラム「マユゲ犬の伝説」。藤原さんがバリ島で出会った、太い「眉毛」のある犬のお話。このマユゲ犬の顔写真が表紙カバーに載っていて、初めて手にとったときは愛くるしい表情に一撃された。なので、ただただ写真に見とれて文章は飛ばし読み。けれど、コラム中の「天使のまゆげ」という言葉だけは頭の片隅に残っていて、はて、なぜ「天使のまゆげ」なのかということが、ずっと気になっていた。
 インドネシアのバリ島で撮影仕事をしていた藤原さんは、山奥の村に「人間のような眉毛」のある犬がいると聞いて探しに出かける。村にたどり着き、村の人々に尋ねるものの、誰もが「ホワーッ」と笑うばかり。ふと村の広場に寝そべっていたしょぼくれ犬に目をやる。顔を上げ、尾を振って近づいてくるその犬にはくっきりとした「眉毛」。マユゲ犬だった。
 あるとき村の人が、いたずら心からマジックペンで犬に太眉を描いた。消えてはまた描いた。いつしか、犬は村の人から笑われ親しまれるようになった。これがマユゲ犬の由来だと知った藤原さんは、バリ島の犬は普通、人に愛嬌をふりまいたりしないのに、マユゲ犬がニコニコしながら尾を振って近づいてくる理由を次のように論考する。

 したがってである。このマユゲ犬は他のバリ犬とは一線を画して人々から常に笑顔を投げかけられつつ成育したわけだ。彼の顔が面白いがゆえにたいがいのニンゲンは彼の顔を見て笑う。
 かくして赤子が母親の笑顔に反応して笑顔をかえすように、マユゲ犬と人間の笑顔の交流がここにはじまった。わたしはそう思う。
 むかし人格は他者によって作られると言った人がいたが、犬格もまたこのように他者によって形成されることが、このマユゲ犬によって証明されたと言える。そこにマユゲがあるというたったそれだけのことで人と犬とはめでたく和解し、心を温め合い、この世界の一隅を平和のオーラで染め上げる。私はこれを“天使のマユゲ”と呼びたい。

   君、天使のマユゲを消したもうことなかれ。
   君、天使の心のマユゲを失うことなかれ。


 今読み返してみて、なにゆえ「天使」のマユゲなのかをしっかりと受け止める。世界の片隅を平和のオーラで染め上げる「天使のマユゲ」。マユゲ犬はもちろん、人自身も、人と人、周囲との関係のなかで、笑顔を、平和を、幸福をつくり上げる。